昭和五十七年六月二十六日 朝の御理解                                                                                                      御理解 第九十八節                                「心は神信心の定規ぢゃによってお伺ひする時には取りわけ平気  でなければならぬ落ち着いて静かに願へ」
                                                                        もう、以前でしたけども、ある方のお取次をさせて頂いた時に、 腹という字、腹という字を、あの、お腹の事ですよ。腹、と、を、横にこう書いてあるところを頂いたんです。どういう事でしょうか、ち、私が申しましたら、私がいつも腹を立てますから、腹を立ててはならん、と、いう事でしょう、と、言うてから、頂いた方の人がはっきり答えを出した事でございましたが、ね。 腹、という字を横に書いてある。自分がいつも腹を立てるから、腹を立てるな、と言う事でしょう、と、こう言うのです。確かにそうです、ね。腹を立ててはおかげにならんです。
いわゆる、今日の御理解ぢゃないけど、いつもお互い平静心でなからないけません。為には、いよいよ自分の心が豊かになる事、大きくなる事を、ま、願われる。ま、此処では、馬鹿と阿呆で道を開けと、こういうふうに頂くんです。けれども、馬鹿と阿呆で、と、言うほど心が大きい事はない。ひっかからんもん。平静心でおれる、ね。
人が、たとえ、どういう事を言うても、また見ても、自分の心をイライラしたり、腹を立てたりする事がいらん。これはどんなに、たとえば、あのう、よい人であっても、美しい心を持っておっても、いつも自分の心の中にさざ並みがたつ、自分の心がいつも、こう、何か、不安である、イライラする、よい人であっても、それは本当のおかげになりません。それは、谷川の水でもせせらぎ、という。いつも、こ、波だっておるという所には、魚がすまんようなもんです、ね。たとえ、少しは薄にごりであっても、ね、ゆったりした所に、大きな魚が住むように、魚が住みたいように、あの人は好い人だ、とか、心が清い人だと、正直なひとだと言うても、ね、心がいつもさざ波立っておるというような事では、ね。とりわけ、神様へ向かう時、とりわけ、また、御神意の一つも伺いたい時には、ね、平静心でなからないけません。
ここでは、心は信心の定規ぢゃによってと、教えておられる。そのどんなに自分が美しい人間であっても、ね、平静心を失うたらおかげならんというのです。ね、心は信心の定規だ、と。私の信心が、あなたの信心が、ね、どの程度に頂けておるかという事を、計らせて頂くためには、自分の心を見たが一番いいわけなんです。ね。
人の良いのと悪いのと、信心しておかげを受けるのは別もの、というような、み教えもありますがね。例えば、心が濁っておるというかね、ま、あんまり良くない人でもね、ま、心に安心を、安心というか、心が平静心である、ね、ま、親先生が、あヽ言うて頂いたから、と、こう心が安らぐおかげを受けるです。ね。どんなに心の清らかな正直な人でも、先生は、あヽおっしゃるけれども、と、言うて、けれどもをつけたらおかげにならんです。ね。
心は信心の定規、いわゆる、心はおかげの受けものぢゃからというふうにいただいてもいいでしょう。ここでは、心一つで全てを創ると、こう言われてます。
これも、ある方がお参りをした時に、この御理解を頂いとった時分でしたが、心一つで全てを創ると、こう書いて、それを反対にこう頂いたんです。逆さまに、ね、それで、私は、心一つで全てを創ると言われるけれども、だから、心一つで全てを、また、こわす事にもなりますよ、と、いう御理解でした。心一つで全てを創る、だけにまた、心一つで今度は全てを、折角のおかげを、も、ここまで来とるとをおかげの方が回れ右して帰ってしまうような事にもなりますぞ、と言うのです。
その時分の心と言うものは、こう、いつも定規を当ててみるような、はあ、こんな事ではおかげ頂かれん、と、自分の心に感じたら、ね、心を取りなをさしてもらう、ね。ささやかな修行でも思い立たせてもらう。心を神様にいよいよ向けさせてもらう、というようにね、精進いたします。ま、精進とはそういう事だと、思うんですけれどね、はい。心が、いうならば平静でない、信心によって神様がわかり、神様を信ずる力が出来てくれば来るほど、平静心を頂く事が出来ます。ね、不安、焦燥、ま、これが心配せずにおられようか、と言ったような時であっても、ね、日頃頂いておる教えが蘇ってまいりますと、はあ、これがおかげだ、と言うて、反対に有難い生々とした元気な心が湧くもんです。ね、しっかり稽古、心は信心の定規です。いうなら、自分のおかげを頂くおかげの、いうなら、度合いが、自分の心の状態でわかります。どんな心配な事がおこっても、不思議にあの時だけは心が落ち着いておりました、と言うような、よく聞きます。そういう時に必ずおかげを受けるでしょうが。おかげを受けておる時です。ね。だから、そういう心をいつも頂いていく事の精進、ね。心は信心の定規ぢゃによって、と、とりわけ、ね、お伺いをする時には、ね、平静心をもって、と、こう教えられます。これは、お伺いをするとか、神様へ向かうという時だけではありません。いや、心が平静でないからこそ、神様に向かうという時もございます。ね。
ですから、その願うところは、まず自分の心が平静になる事、おかげの受けられる状態になる事を、願わなければならん、という事がわかりますね。どうぞどうぞこうなりますように、あヽなりますようにというのぢゃなくて、私の、神様は下さっても、それを受け止める心がない。だからまずは、私の心に、ね、平静心を与えて下さい、という願いを先にしなければならん事がわかります。また、自分の心次第が、自分の信心の状態であり、または程度である事もわからせてもらわなければなりません。                                  「 どうぞ 」